モーパッサン
「ギュスターヴ・フロベール」 (I)

« Gustave Flaubert », 1884



(*翻訳者 足立 和彦)

フロベール『ジョルジュ・サンド宛書簡集』表紙 解説 1884年に刊行されたギュスターヴ・フロベールによる『ジョル・ジュ・サンド宛書簡集』(Lettres de Gustave Flaubert à George Sand, précédées d'une étude par Guy de Maupassant, G. Charpentier, 1884) に「序文」として書かれたフロベール論、2章からなっている。
 フロベールとモーパッサンの交流は1872年頃より本格化し、モーパッサンはフロベールの指導のもとで文学修業に励んでゆく。1876年の最初の評論「ギュスターヴ・フロベール」には、当時の弟子による師への敬愛の念が溢れている。
 その後、1880年にフロベールは急逝する。独り立ちしたモーパッサンは「一年前の思い出」「書簡に見るギュスターヴ・フロベール」「私生活のギュスターヴ・フロベール」と続けて回想・評論を発表した。また、遺作となった『ブヴァールとペキュシェ』の編集にも関わり、「ブヴァールとペキュシェ」に紹介・論評を記している。『ブヴァール』第2部となるはずだった残された原稿については、本論で詳しく紹介されている。
 本論は、それらの記事の再録を含んでおり、集大成としての意味を持つ重厚なフロベール論に仕上がっている。偉大な作家の人となりについての貴重な証言であると同時に、7年にわたって最も間近に接した直弟子によるフロベール文学の理解と分析は、その本質において今日でもまだ意義を失っていないと言えるだろう。もちろん、モーパッサン自身の文学を理解する上でも本論は重要なものである。
 なお、1888年に執筆される「小説論」の中で、フロベールの「文体についての考えは余所で述べた」と言われているが、それが本論である。

 本論の第2章については次の既訳が存在する。
ギー・ド・モーパッサン「ギュスターヴ・フローベール(抄)」、宮原信訳、『フローベール全集』、第10巻、1970年、筑摩書房、447-459頁。
 また、本文に引用の見られるフロベールによるブイエ『最後の歌』序文は、同じ第10巻に、平井照敏訳(407-432頁)がある。本論で紹介されている『ブヴァールとペキュシェ』第2部に相当するはずだった資料については、同全集の第5巻に、「各種文体の標本」「比較対照句集」「当世風思想一覧」(山田爵訳)の翻訳がある (357-372頁)。
 最後に、「ドン・ジュアンの一夜」の翻訳は、同じく『フローベール全集』第7巻に、山田爵訳が収録されている (431-435頁)。今日では、この草案は1850年頃に書かれたものと考えられている。


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ギュスターヴ・フロベール


 ギュスターヴ・フロベールは1821年12月12日、ルーアンに生まれた。母親は、ポン=レヴェックの医師フルリオ氏の娘だった(1)。彼女は低地ノルマンディーの一家系、カンブルメール・ド・クロワ=マール家に属し、憲法制定議会のトゥーレ(2)と姻戚関係にあった。
 G・フロベールの祖母のシャルロット・カンブルメール(3)はシャルロット・コルデー(4)の幼友だちであった。
 けれども彼の父(5)はノジャン=シュル=セーヌに生まれ、シャンパーニュ地方の家柄だった。優れた外科医で評判も高く、ルーアンの市立病院の院長を務めた。実直で単純、粗暴な人物だったので、自分の息子ギュスターヴの天職が文芸にあると知ると、憤慨はしないが驚いたのだった。彼にとっては作家という職業は怠け者、無用者のする仕事だったのだ。
 ギュスターヴ・フロベールは神童とは正反対であった。大変に苦労してやっと読み書きを習得できた。どうにか読むことができるようになって、九歳で学校に入学した。
 幼い頃に大いに好んだのは物語を話してもらうことだった。彼はじっと動かず、大きな青い瞳で語り手を見つめて聞いていた。その後には、何時間も夢想に耽りつづける。指をくわえ、まるで眠っているかのようにすっかり没頭したままで。
 だが彼の精神は活発に働いていたのであり、それというのも彼はすでに作品を組み立てていたのだ。まだそれを書き記すことは全然できないながら、ひとりで思い描いては、様々な人物を演じ、即興で長い対話を続けていたのだった。
 ごく幼い時から、彼の性質にははっきりとした二つの特徴があった。それは大変な純真さと、身体を使った行動に対する恐怖である。生涯を通して、彼は純真であり、家に籠りがちだった。自分の周りで人が歩いたり動いたりするのを目にすると、気が立たずにはいられなかった。そして激しく、よく響き、いつでも少しばかり芝居がかった声で、そういうのはまったく哲学的ではないと断言するのだった。「考えたり、書いたりするには座っていなければならない」と彼は言ったものである。
 彼の純真さは最後の日々まで変わらなかった。大変な慧眼の持ち主であり、とても繊細なこの観察者は、遠くからしか人生を明晰に眺めることができなかったかのようだ。それに触れたり、身近な隣人たちのこととなったりすると、途端にヴェールが彼の目を覆ってしまうようだった。生まれながらの極端なまでの実直さ、揺るぐことのない良心、魂の衝動に基づく感情のこもった寛容さが、疑いもなく、この根強い純真さの理由となったのである。
 彼は世間の中ではなく、その傍らに生きた。観察するのによりふさわしい場所に立ち、接触によってもたらされる生の印象には触れなかった。
 友人ルイ・ブイエ(6)の詩集『最後の歌』の序文に彼が記した言葉は、とりわけ彼自身にこそ当てはめることができるだろう。

 つまり、もし世の中の事件が、それが認知されるやすぐにも、描写すべき幻想に用いるべく移し替えられるように思え、それが故に、あなた自身の存在をも含むあらゆる事物が、他の有用性を備えていないかのように見え、どんな侮辱にも耐える決心がつき、どんな犠牲にも心構えができ、どんな試練にも身を守れるなら、乗り出したまえ、出版したまえ!(7)

 青年時代、彼は驚くほど美しかった。家の古い友人である有名な医師が彼の母親に言ったものである。「あなたの息子さんは、青年になったキューピッドのようですね。」
 女性を軽蔑し、芸術家としての高揚の内に、一種の詩的忘我の内に彼は生きたのであって、その恍惚が維持されたのは、最も親しい友、最初の導き手、二度とは見出だせない心の兄、アルフレッド・ル・ポワトヴァン(8)との日々の交流によってであった。アルフレッドは労働に倒れ、心臓の病で早逝したのだった。
 それから、彼は恐ろしい病に襲われることとなった。その病を、別の友人であるマクシム・デュ・カン氏(9)が性質の悪い霊感を得て公衆に暴露した。フロベールの芸術家としての性質とてんかんとの間に関係を見出だし、一方によって他方を説明しようとしてのことだった。
 確かに、この恐ろしい病が体に打撃を与える時には、精神を暗くさせずにはおかない。だが、そのことを悔やむべきだろうか? まったく幸福で力もあって健康な人間は、人生を理解し、洞察し、説明するのに必要なだけの準備ができているだろうか。あまりにも苦しみが多く、あまりにも短い我々の人生を? 彼ら、生命力溢れる者たちは、我々を取り囲むあらゆる悲惨、あらゆる苦しみを発見し、死は絶えず、日々到る所で、残忍に、盲目的に、宿命的に襲ってくるものだということに気づくようにできているだろうか。
 すなわち、てんかんの最初の発作が、このたくましい青年の情熱的な精神に憂鬱と不安とを刻印したというのはありうることだし、ありそうなことである。その結果、人生における一種の危惧が彼の内に残ったということもありそうなことだ。事物の検討の仕方が以前よりも幾らか暗くなり、出来事に対して疑いを抱くようになり、見かけの幸福を前に疑念を抱くようになったというようなこともありそうなことだ。だが、フロベールのような情熱的でたくましい人物を知っていた者であれば誰にとっても、彼が日々、生き、笑い、興奮し、感じ、感動しているのを目にした者なら誰にとっても、発作についての不安はそもそも壮年期には消え去り、ただ晩年になって再来したにすぎず、それが彼の生き方、感じ方、生活習慣を変えたとしても、ほとんど目に留まらないほどでしかなかったことは疑いようもないのである。
 決して出版されることのなかった幾つかの作品を試みた後、ギュスターヴ・フロベールは1857年に、傑作『ボヴァリー夫人』でデビューを飾った。
 この書物の歴史については知られている。検察によって起こされた訴訟、ピナール氏の激しい論告、その名はこの訴訟によって記憶されることだろう。そしてセナール弁護士による雄弁な弁護、困難の末の無罪判決は、渋られ、裁判長の辛辣な言葉で非難されたが、その後には復讐となる、眩いばかりの大成功があった!
 だが『ボヴァリー夫人』には秘密の歴史も存在し、それは文芸というこの困難な仕事に取り組む新人にとって教訓となりうるものだろう。
 五年にわたる執拗な労働の後、この天才的な作品をついに完成させた時、フロベールはそれを友人マクシム・デュ・カン氏に託した。氏はそれを『パリ評論』の編集者兼経営者ローラン・ピシャ氏の手に預けた。その時に、最初から自分のことを理解してもらうのはどれほど難しいことか、最も信頼している者、最も知的な者として通っている人間からもどれほど誤解されるものかということを、フロベールは学んだのである。確かにこの時期に、人々の判断に対して彼が内に抱える軽蔑の念、絶対的な肯定または否定を前にしての彼の皮肉な姿勢は決定づけられたのだ。
 ローラン・ピシャ氏に『ボヴァリー夫人』の原稿を渡してからしばらく経った後、マクシム・デュ・カン氏はギュスターヴ・フロベールに以下の奇妙な手紙を書き送っているが、これを読むことによって、『文学についての思い出』中で、彼の友人、そしてとりわけ『ボヴァリー』に関するこの作家の暴露によってもたらされうるような意見には、修正が加えられることだろう。

1856年7月14日

 親愛なる君へ。ローラン・ピシャは君の小説を読み、僕に評価を送ってきたので、君にそれを伝える。それを読めば、どれほど僕がそれを共有しているに違いないかが分かるだろうが、それというのも、君の出発前に僕が君に示した批評がほとんどそのまま再現されているからだ。僕は君の書物をローランに渡す際に、熱烈に推薦する以外のことはしなかった。だから僕らは君をやっつけるのに同じ鋸を使うなどと少しも合意していなかったのだ。彼が君に与える助言は良いものであり、それが唯一君の従うべきものだと僕は君に言おう。君の小説を『評論』に掲載するために、僕らに〈親方〉の役をさせてくれたまえ。僕らは不可欠だと思われる削除を施すだろう。その後で、君は好きなように単行本で出版すればいい。それは君に関わる事柄だ。ごく率直な意見を言わせてもらえれば、もし君がそうしないなら、君は絶対に君の評判を危うくするし、混乱を抱えた作品でデビューすることになる。作品に興味を持たせるには文体だけでは十分ではないのだ。勇気を出してくれ。手術の間目をつぶっていてくれ。そして僕らの才能をではないとしても、この種の事柄に関して得た僕らの経験と、君に対する僕らの愛情を信頼してくれ。君は自分の小説を、よく出来てはいるが、しかし無意味な事柄の山の下に埋めてしまった。人にはそれがよく見えないのだ。それを引き出してやらなければならない。それは容易な仕事だ。僕らはその仕事を、僕らの目の前で熟練の腕のいい人物にやらせるだろう。君の原稿に一語も付け加えたりはしない。削除するだけだ。こうしたことは君にとって百フランほどの負担となるだろうが、それは君の著作権に割り当てておこう。不完全であまりに膨らみすぎた作品の代わりに、君は本当に良いものを出版したということになるだろう。君はありったけの力で僕を呪うに違いないが、こうしたことの中で僕はただ君の利益しか考慮していないことを思ってみてくれ。
 親しい友よ、さようなら。返事をくれたまえ、敬具。
マクシム・デュ・カン

 一個の典型であり、後には不滅となるこの書物の切断は「熟練の腕のいい人物」によって行われ、著者にはたったの百フランほどの出費だった! まったく、ただ同然ではないか!
 この奇怪な助言を読んで、ギュスターヴ・フロベールはごく自然な感動に深く捕われて震えたに違いない。そして、貴重なことに無事に保存されたこの手紙の背面に、彼は目一杯大きな文字でこのたった一語を書いたのだ。「並外れている(ジガンテスク)!」
 二人の協力者、ピシャ氏とマクシム・デュ・カン氏は仕事に取り掛かった。実際に、友人の作品を害している「よく出来ているが、しかし無意味な事柄の山」を取り除くために。というのも、著者によって残された初版の一冊には、次のように書かれているのが読めるのである。

 この一冊は、詩人にして『パリ評論』の編集者兼経営者ローラン・ピシャ氏の手から渡った私の原稿を再現している。
ギュスターヴ・フロベール
1857年4月20日

 その本を開くと、頁から頁にわたって、抹消された行、段落、部分全体が目に入る。オリジナルで新しいものの大半が、入念に消されているのである。
 そして最後の頁にも、ギュスターヴ・フロベールの筆跡で以下のように書かれている。

 マクシム・デュ・カンによると、結婚式の場面「全部」を切り取る必要があった。ピシャによれば、「農業共進会」は端から端まで、削除するか大幅に省略して「やり直す」必要があった! 『評論』では一般的意見として「畸形の足」はあまりにも長すぎて「無用」だった。

 まさしくここに、フロベールとデュ・カン氏とを結んでいた情熱的な友情に持ちあがった陰りの起源もあったのである。もっと正確な証拠が必要であれば、ルイ・ブイエがフロベールに宛てた書簡の一節の内にそれを見出だせるだろう。

 マクシム・デュ・カンに関して言えば、僕は二週間彼に会わなかったし、この前の木曜日に彼が家に来なかったら、そのまま年を過ごしたことだったろう。彼は僕に対しても、君についてもとても愛想が良かったと言っておかなければならない。それは政治的なことかもしれないが、僕はただの歴史家として事実を確認するのみだ。彼は僕に編集者、それから叢書を見つけるための協力を申し出た。君と、君の仕事について尋ねた。『ボヴァリー』について僕が彼に言ったことは、大いに彼の関心を惹いた。彼がおまけのように言ったのは、自分はとても幸運だったし、君が『評論』を許さなかったのは間違っている、喜んで君の作品を自分の文集に受け入れるだろう、等々ということだった。彼は確信をもって率直に語っているようだった……。

 この内輪の詳細が意義を持つのは、ただデュ・カン氏が友人に対して下した判断に関する点のみである。後になって、彼らの間では和解が成立した。
 『ボヴァリー夫人』の出現は、文芸における革命だった。
 偉大なるバルザックは、正当に評価されていないが、力強く、ぎっしりと中身が詰まって、生命力に溢れ、人間についての観察というよりも直観的認識に富む書物の中に、自らの才能を注ぎ込んだ。彼は自分の精神の内に生まれた一個の世界全体を、洞察し、発明し、作り上げたのだった。
 言葉の繊細な意味においてほとんど芸術家ではなかった彼は、力強く、イメージに富む、いくらか混乱していて骨の折れる言葉を綴った。
 インスピレーションに翻弄されたために、言葉によって、文章の響きと構成によって、概念を価値あるものにするというとても難しい芸術を、彼はないがしろにしたようである。
 作品の中で、彼は巨人のように重々しい。この大変に偉大な人物の書いたものの中には、ラブレー(10)、ラ・ブリュイエール(11)、ボシュエ(12)、モンテスキュー(13)、シャトーブリアン(14)、ミシュレ(15) 、ゴーチエ(16)等のように、言葉の傑作として引用されうる頁はわずかしか存在しない。
 反対に、ギュスターヴ・フロベールは、直観よりもはるかに洞察力を頼りとし、新しく、正確で、簡素でありながら響き豊かな見事な言葉の中に、人間の生活についての深く、驚異的で完璧な研究をもたらしたのだった。
 それはもはや偉大な作家たちの遺したような小説ではなかった。いつでもいくらか想像力と作家その人の存在の感じられる小説、悲劇のジャンル、感傷的なジャンル、情熱的なジャンル、あるいは家族向けのジャンルと分類されるような小説、そこに作家の意図、意見、考え方が現れている小説ではなかったのである。そこには人生そのものが現れていた。頁をめくる目の前で、人物は自ら立ち上がり、風景は悲しみや陽気さ、匂いや魅力とともに過ぎて行き、事物もまた、目に見えずどこに隠れているか分からない力によって喚起されるにしたがって、読者の目の前に現れてくるのだと言えただろう。
 実際、ギュスターヴ・フロベールは芸術における非人称性の最も熱烈な信奉者であった。作者の存在が見抜かれることを、一頁に、一行に、一語の内に、自分の意見の片鱗、意図の痕跡さえも残しておくことを認めなかった。彼は事物の鏡にならなければならないが、その鏡は事物に、言葉には表現できない、芸術というほとんど神的な何かを付与しながら再現する鏡なのである。
 この完璧なる芸術家について語る時には、非人称ではなく、無感動と言うべきであろう。
 彼が観察と分析にとても大きな価値を置いていたとすれば、構成と文体にはより一層の価値を置いていた。彼にとっては、この二つこそがとりわけ不滅の書物を創り出すのであった。構成という語で彼が理解していたのは、ある存在の内で継起する行為の中からそのエッセンスだけを表現し、特徴的な性質だけを選び出してグループ分けし、それらを組み合わせることで、それらの特徴が共同で貢献することによって、何らかの教訓といったものではなく、得たいと思う効果を完璧にもたらすに至るという、そういう集中力を要する仕事のことであった。
 そもそも、道徳的な芸術や貞淑な芸術といったものについて批評家の御仁が唱える教義ほど、彼を苛立たせるものはなかった。
 「人類が存在して以来」と彼は言ったものだった。「あらゆる偉大な作家は、無能な者たちのそうした忠告に対して自分の作品でもって抗議してきたのだ。」
 道徳、貞節、規範は、確立された社会秩序の維持には不可欠なものであるが、社会秩序と文芸の間には共通するものは何も存在しない。小説家が観察や描写の基本的な素材とするものは、善悪にかかわらず人間の情念である。説教することも、鞭で打つことも、教えることも小説家の使命ではない。なんらかの意図を持つ書物は、芸術家の書物ではありえない。
 作家は眺める。魂や心の中に入り込み、その裏面や、卑劣だったり高潔だったりするその傾向、人間的動機の複雑な仕組み全体を理解しようと努める。そうして彼は自分の人間としての気質と、芸術家としての良心に従って観察する。もしも彼が機械的に人間性を賞讃したり、粉飾したり、彼が高潔だと思う情念に役立つように不名誉だと思われる情念を和らげるように努めたりするなら、彼はもはや良心的でなく、芸術家でもない。
 良いにせよ悪いにせよどんな行為も、作家にとって重要なのは書くべき主題としてだけであって、善悪に関するどんな考えもそこに結びつけられることはない。文学的資料として多かれ少なかれ価値がある、それだけのことである。
 良心をもって観察され、才能をもって表現された真実のほかには、ただ大家ぶった文士の無益な努力があるのみである。
 偉大な作家は道徳にも貞節にも関心を持ちはしない。例を挙げるなら、アリストファネス、アプレイウス、ルクレティウス、オウィディウス、ウェルギリウス、ラブレー、シェークスピアや、その他多くの者たちである。
 もしもある書物が教訓を持つとすれば、それは作者の意に反してであるに違いなく、彼の語った事柄の力そのものによってのことだろう。
 フロベールはこうした原則を信仰箇条のように考えていた。
 『ボヴァリー夫人』が現れた時、優美な小説のねっとりとしたシロップや、波乱万丈な小説の本当らしくもない事件に慣れていた公衆は、この新しい小説家をレアリスト(現実主義者)の内に分類した。そこには粗末な誤りとひどい愚かさとが存在した。人生を注意深く観察したからといってギュスターヴ・フロベールがレアリストでないのは、下手くそに観察するからといってシェルビュリエ氏(17)が理想主義者でないのと同じである。
 レアリストとは、荒々しい出来事にしか関心を持たず、その重要性は相対的なものであることを理解せず、その出来事が引き起こす反響を記述しようともしない者のことである。ギュスターヴ・フロベールにとっては、出来事はそれ自体では何も意味しなかった。彼は、一通の書簡の中で次のように自分の考えを説明している。

 ……君は出来事が変化に乏しいと不満を漏らしている。――それは現実主義者的な不満だ。しかしそもそも君は、それについて何を知っているのか? 問題はそれらをもっとよく見ることにある。君はかつて事物の存在を信じたことがあるというのか? すべては一個の幻影ではないのか? 真実であるのは関係だけだ。つまりは、我々が事物を認識する仕方だけである(18)

 しかしながら彼以上に良心的な観察者は存在しなかったが、結果を生み出す原因を彼以上に理解しようと努めた者も存在しなかったのである。
 彼の仕事の方法、芸術的手法は観察よりもはるかに洞察に通じているのである。
 説明的な論述によって人物の心理を提示してみせる代わりに、彼は人物の行為によってそれがただ現れ出るようにした。そうして内面は外面によって露わにされ、心理についての論証は一切存在しないのである。
 彼はまず典型を想像する。それから演繹的推論を通して、気質に沿った絶対的な論理によってその人物たちが不可避的に行うに違いない特徴的な行動を、彼らに行わせた。
 したがって、彼があれほど詳細に研究した人生が彼の役に立つのは、ほとんど資料としてだけだったのである。
 決して彼は出来事をはっきり言明しない。彼の書くものを読んでいると、出来事そのものが話しにやって来るかのようなのだが、それほどに彼は人物や事物の視覚的な登場を重要視していたのである。
 〈演出家〉としての、無感動な霊媒としてのこの稀なる資質ゆえに、軽薄な精神の持ち主たちは彼をレアリストと名づけたのだが、彼らは哲学的な文章で開陳してもらわない限りは、一個の作品の持つ深い意味を理解することができないのである。
 彼は背中に貼りつけられたレアリストという呼び名に大いに立腹していて、自分が『ボヴァリー』を書いたのは、ただシャンフルーリ(19)の流派に対する憎しみからだと主張していた。
 エミール・ゾラ(20)に対する大きな友情と、天才的と呼んでいたゾラの力強い才能に対する深い賞讃の思いにもかかわらず、彼は「自然主義」を許しはしなかった。
 知性をもって『ボヴァリー夫人』を読みさえすれば、これ以上にレアリスムから遠いものはないということを理解できるはずである。
 レアリストの作家の手法とは、彼が知っていて観察した平均的な人々によってなされた、実際に起こった出来事をただ語るだけである。
 『ボヴァリー夫人』においては、それぞれの人物は典型である。つまり、同じ知的階層に属する一連の人々の要約である。
 田舎の医者、夢見がちな地方暮らしの女性、プリュドム(21)のような薬剤師、司祭、恋人たち、それにすべての脇役の人物たちもが典型であって立体感をそなえているが、多数の同種の観察が彼らの内に凝縮されているだけに一層力強く、それぞれの階層の模範的な見本を表しているだけにいっそう本当らしいのである。
 だがギュスターヴ・フロベールが大きくなったのはロマン主義が花咲いている時であった。彼はシャトーブリアンやヴィクトル・ユゴー(22)の響き渡る文章で育てられ、魂の内に感じる抒情的な欲求は『ボヴァリー夫人』のような正確な書物においては十分に振りまくことはできなかった。
 そこにこそ、この偉人の最も個性的な面が存在している。この革新者、啓示者にして勇敢なる者は、最期の時までロマン主義の支配的な影響下にあった。それはほとんど彼の意に反し、ほとんど無意識的なものであり、天才の抵抗しがたい力、彼の内に閉じこめられた創造力に押しやられて、彼はとても新しい様相を持ち、とても個性的な調子をそなえたあれらの小説を書いたのである。趣味からすると、彼が好んだのは叙事詩的な主題がオペラの情景にも似たある種の歌によって展開するものだった。
 もっとも、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』の中でも彼の文章は、一般的な事柄を表現しなければならない時であっても、しばしばほとばしり、響き渡り、表現している主題よりも高い調子を持つのである。抑えられ、この平板さを強制されることに疲れたかのように文は始まり、オメーの愚鈍さやエンマの愚かな言動を述べるにあたって、あたかも詩のモチーフを表現するかのように、仰々しくなったり華々しくなったりする。
 彼は偉大さへのこの欲求に抵抗できず、ホメロス的な物語の様式によって、二冊目の小説『サランボー』を執筆した。
 それは小説であろうか? むしろ一種の散文で書かれたオペラではないだろうか? 見事な壮麗さ、輝き、驚くべき色彩とリズムをともなって情景は展開してゆく。
 文章は歌い、叫び、トランペットの怒りの響き、オーボエの囁き、チェロのうねり、ヴァイオリンの柔らかさ、フルートの繊細さを含んでいる。
 そして人物たちは英雄として作り上げられ、いつでも舞台の上に立っているかのようで、壮麗な様式にのっとり、力強く魅力的な優美さをもって語り、古代の壮大な背景の前で動いているかのようである。
 この巨人の書物、彼が書いた中で最も造形的に美しい書物は、壮麗な夢の印象を与えるものである。
 ギュスターヴ・フロベールが語った出来事は、実際にそんな風に起こったのだろうか? 恐らくはそうではあるまい。事実は正確であるとしても、彼がそこに投げかけた詩情の輝きによって、それらの事実は壮麗な空間の内に我々の前に現れるのであり、その抒情的芸術が、彼の手に触れるものを包んでいるのである。
 だが傭兵の反乱についてのこの響きのよい物語を終えるやすぐに、彼はまたそれほど華麗ではない主題に誘惑されるのを感じて、忍耐のいるあの偉大な小説、『感情教育』という名の簡素にして完璧な一大研究をゆっくりと執筆しはじめた。
 この度は、人物としてもはや『ボヴァリー』のように「典型」ではなく、取るに足らない人間、平凡な人間、我々が日々出会っているような者たちを取り上げた。
 この作品が彼に要求したのは超人間的な構成という仕事であったが、それはあまりにも人生そのものに似ているので、計画も意図もないままに作られたかのように見えるのである。それは日々起きていることの完璧な写し絵である。存在についての正確な日誌である。哲学はあまりに完全に潜在的であり、あまりに完全に出来事の背後に隠れている。心理はあまりに完全に人物の行為、態度、会話の中に閉じこめられているので、強調された効果や明確な教訓に慣れている粗野な公衆は、この比類のない小説の価値を理解することができなかった。
 ただ、とても鋭敏で観察力のある精神の持ち主だけが、見かけは単純で生彩に欠けて平板に見えるが、たいへんに奥深く、ヴェールで覆われていて実に苦い、この唯一無二の書物の重要性を理解した。
 『感情教育』は、既知で不変の芸術形式に慣れた批評家の大半から軽視されたが、多くの熱狂的な賞讃者を勝ち得、彼らはこの作品をフロベールの著作の中で第一等に位置づけている。
 だが彼の精神に不可避な反動の結果、もう一度重々しく詩的な主題を取り上げることが彼には必要だった。それで彼はかつて下書きをした作品に再び着手することとした。それが『聖アントワーヌの誘惑』である。
 そこには確かに、かつて一個の精神が試みた最も大きな努力がある。だが主題の性格そのもの、その広がり、その到達不能の高みゆえに、このような書物の実現はほとんど人間の能力を超えるものだったのだ。
 孤独者に対する誘惑という古い伝説を取り上げ、この孤独者を裸の女性やおいしい食べ物の幻によってだけでなく、人間の不安な精神がさ迷うあらゆる教義、あらゆる信仰、あらゆる迷信によって襲わせた。それは諸宗教の大規模な行列であり、そこにはありとあらゆる奇妙でナイーヴで複雑な考えが付き従ってゆくのだが、そうした考えは計り知れない未知なるものに対する欲望に苛まれる夢想家、司祭、哲学者たちの脳内に花開いたものである。
 そして、この巨大で、困惑をもたらし、崩壊した信仰のカオスのようにいくらか混乱した作品が完成するや、彼はほとんど同じ主題を再び取り上げたのが、この度は宗教の代わりに科学を取り上げ、恍惚に至った老聖人の代わりに二人の偏狭なブルジョアを選んだのだった。
 以下にこの百科全書的な書物、『ブヴァールとペキュシェ』の思想と展開がどのようなものかを述べるが、本の副題は「人間の知についての研究における方法の欠如について」ともなるだろう(23)
 パリで雇われた二人の書記が偶然に出会い、密接な友情で結ばれる。一人が遺産を相続し、もう一人は貯金を持ち寄る。二人はノルマンディーに農園を買い、それは二人の生活全体の夢であるのだが、そして首都を去る。
 さて、彼らは人類のあらゆる知識にわたって、一連の研究と実験を始める。そしてそこにおいて、この作品の哲学的構想が展開するのである。
 彼らはまず園芸に、次いで農業、化学、医学、天文学、考古学、歴史、文学、政治、衛生学、動物磁気、魔術に取り組む。二人は哲学に辿り着き、抽象概念に没頭し、宗教にはまり、うんざりすると、二人の孤児の教育を試み、また失敗すると、絶望し、以前のように筆写を再開するに至る。
 したがってこの書物は、あらゆる科学の点検であり、科学は二人の十分に聡明で、凡庸で、単純な精神に現れるがままに示される。それは同時に巨大な知の積み重ねであり、とりわけ、あらゆる科学的体系についての驚くべき批判であって、それぞれの体系は対立しあい、お互いに滅ぼしあうのだが、それは事実間の矛盾、認められ、異論のないはずの法則同士のもたらす矛盾によってなのである。それは人類の知の非力さについての物語であり、読者は一本の糸を手に博識の無限の迷宮の中を散策することになる。その糸とは思想家の大いなる皮肉であり、彼は絶えず、あらゆるものに永遠の普遍的な愚かさを確認するのだ。
 何世紀にもわたって確立された信仰が、十行の内に提示され、発展させられ、そして別の信仰との対立によって分解され、その別の信仰も同じように鮮明に、生き生きと提示され、解体される。頁から頁に、行から行にわたって、一つの知が立ち上がり、すぐにまた別のものがそびえ立つと、前のものを倒し、自分もまた次のものに打倒される。
 『聖アントワーヌの誘惑』で古代の宗教と哲学について成したことを、フロベールは改めて、あらゆる現代の知に対して成し遂げた。それは科学のバベルの塔であり、そこではあらゆる多様な教義が、相反しながらもそれぞれは絶対的なもので、各々自分の言葉を話し、努力の空しさ、断言に含まれる虚栄、常に「一切のものの永遠の惨めさ(24)」を証明している。
 今日の真理は明日には錯誤となり、全ては不確かで、変わりやすく、比率は分からないままに多くの真と誤りとを含んでいる。真も誤りもないのではない限りの話だが。この書物の教訓はブヴァールの以下の台詞に含まれているように私には思われる。「科学は領域の一部分からもたらされた資料に従って作られる。人の知らない残り全部には恐らく適応しないのだろう。そちらのほうが一層広いのだが、発見することはできないんだ(25)
 この書物は、人間の内にあって偉大なもの、奇妙なもの、繊細なもの、そして「興味深い」ものと関わっている。それは「概念」の歴史であり、「概念」はあらゆる形態、あらゆる現われ方のもとに、あらゆる変化を伴って、その弱さと強さの内に描かれる。
 ここで興味深いこととして指摘しておくべきは、ギュスターヴ・フロベールは、次第に抽象度を増しつつ高められていく理想へと、恒常的に傾倒していったということである。理想という語でもって、ブルジョワの想像力を魅了するあの感傷的なジャンルと理解してはならない。それというのも、理想とは大部分の人間にとっては「本当らしくない」ものでしかないからだ。他の者にとっては、それはごく単純に概念の領域を指している。
 フロベールの最初の小説は、まずは実に多様でとても人間的な風俗の研究であり、次に炸裂する詩情、一連のイメージと幻であった。
 『ブヴァールとペキュシェ』においては、真の登場人物はもはや人間ではなくシステムである。役者たちはただ概念の代弁者の役を務めるのであり、概念は生物のように動き、結ばれ、争い、滅ぼしあう。
 そして、人間性を擬人化するこの二人の哀れな老人の頭の中に信仰が行列する様から、特別な滑稽さ、不吉な滑稽さが露になる。二人は常に誠実で、常に熱心であるが、経験は変わることなく最も確立された理論にも反する。最も微細な道理が、最も単純な事実によって覆されるのである。
 科学についてのこの驚くべき建造物は、人間の非力さを証明するために建てられたもので、一個の仕上げ、一つの結論、明々白々たる正当な論拠を備えるはずだった。その巨大な論告文書の後に、著者は、雷のごとく強烈な証拠を貯え、偉人たちの内から集められた愚かな言行についての資料を積み重ねたのだった。
 ブヴァールとペキュシェがすべてにうんざりして写筆を再開した時、二人は自然と以前に読んだ書物を開き、自分たちの研究の辿った自然な順序を繰り返し、自分たちが知識を得た書物から選ばれた一節一節を、細心の注意を払って書き写していった。その時、愚かさ、無知、明白で奇怪な矛盾、とんでもない誤謬、恥ずべき断言、最も卓越した精神や了見の広い知性が犯したありえないような過失が、恐ろしいような連続を成し始めたのである。何か一つの主題について書いた誰かは、しばしば愚かな言葉を吐いた。この愚かな言動を、フロベールは倦むことなく発見し、収集した。そして一つのものを別のものと、また別のもの、また別のものと関連づけ、彼は巨大な束を築き、それはあらゆる信仰、あらゆる断言の意気を挫くものとなった。
 この人間の愚かさについての書類はノートの山を成しているが、全体が出版されるにはあまりに厚く、あまりに雑多に混じりあっているのである。
 もっとも彼はこれらを分類していたのであるが、彼はこの最初の分類を再検討し、修正し、資料の山の少なくとも半分は削除しなければならなかった。しかしながら以下にお示しするのは彼がこれらのメモを遺したままの順序である。

道徳

哲学
神秘主義
宗教
預言
社会主義(宗教的および政治的)
批評
美学
        迂言法
文体の見本 改詠詩
        ロココ

〈偉大な作家、ジャーナリスト、詩人の文体〉

    古典的
    科学的 医学の
         農業に関する
    聖職者の
    革命的
文体  ロマン主義の
    レアリスト
    演劇の
    回想録の公式な
    公式の詩的な

《科学的思想の歴史》

     〈美術〉

    秩序の側の
美   文学者の
    宗教の
    君主の
偉人についての意見
修正された古典主義
奇妙さ――残酷さ――奇抜さ――侮辱――愚かさ――臆病
下層階級礼賛
公式の意味不明語 演説
             回状

《愚か者》

紋切り型事典。
「シックな」意見のカタログ。

 すなわちそこにはあらゆる形態における人間の愚かさの歴史があるのである。
 いくつかの引用によってこれらのメモの性質と射程とが理解されるだろう。

《哲学、道徳、宗教》

〈理詰めで考える哲学によって堕落した古代ギリシャ人〉

 たいへんに輝かしいこの民族は永続的なものを何も築いたり設けたりしなかったので、彼らが遺したものは犯罪と荒廃、書物と彫像の記憶だけだった。この民族には常に理性が欠けていた。
ラムネー、『無信仰についての試論』、第4巻、171頁。

〈道徳〉

 君主は風俗における何物かを変更する権利を有する。
デカルト、『方法序説』、第6部。

 数学の研究は感受性と想像力を抑圧するがために、情念のひどい爆発をもたらすことがある。
デュパンルー、『知的教育』、417頁。

 迷信とは宗教の前進堡であるから、これを破壊するべきではない。
ド・メストル、『サンクトペテルブルクの夜』、第七対話、234頁。

 海は、船と呼ばれるあの漂う見事な建造物を支えるために作られた。
フェヌロン

《宗教的美、哲学、道徳》

〈政治経済学〉

 1823年、リールの住人は、菜種油のために政府に陳情したのであるが、それによると、新製品であるガスが普及し始めており、この照明方法が一般化すると他のものが見捨てられることとなるが、それはガスがより優れていてより安価なだけになおさらのことである、云々。それゆえに、彼らは謙虚ではあるが断固として、彼らの仕事の自然な保護者である国王に向かって、この被害をもたらす製品を絶対的に禁止することによって、彼らの権利をあらゆる損害からお守り頂きたいと願ったのであった。
フレデリック・パッシー、「自由交易についての演説」、1878年12月15日。

 いかに無教養であるとはいえ、シェークスピア自身、読書経験や知識を持たなかったわけではない。
ラ・アルプ、『文学講義序論』

〈聖職者の文体〉

 奥様方、世界という鉄道におけるキリスト教社会の進行において、女性とは水滴であり、その磁気的な影響力は聖霊の火によって活気づけられ、純化されることで、有益なる推進力によって社会という列車に運動を伝えるのです。
 だが、もしも神の加護の受けた水滴を供給する代わりに、女性が脱線させる石をもたらすなら、恐るべき大災害が起こるでしょう。
メルミヨ猊下、『魂における超自然的生命について』

《迂言法》

〈愚か者〉

 あまり貞淑ではない娘が結婚前に男性と暮らすのはよくないことであろう。
(ホメロスの翻訳)ポンサール

〈ロマン主義の文体〉

ハープを奏でるシビルは概して惚れ惚れするものであった。彼女を見ていると天使という語が口から洩れるのだった。
『シビル』(116頁)、O・フイエ。

〈君主の文体〉

 一国の富は全体的な繁栄に依存する。
ルイ・ナポレオン
『左岸』紙1865年3月12日に引用。

〈カトリックの文体〉

 哲学教育は、バビロンの盃に竜の胆汁を入れて青少年に飲ませるものである。
ピオ九世、『声明書』、1847年。

 ロワール川の氾濫は、新聞雑誌の行き過ぎと日曜のミサの不遵守に因るものである。
メス司教、『教書』、1846年12月。

《科学的概念》

〈博物学〉

 エジプトでは女性たちが公然と鰐を相手に売春をしている!
プルードン(『日曜ミサの執行について』、1850年。)

 犬は通常二種の相反する色のぶちになっており、一方は明るく、他方は暗いが、それは家の中のどこにいても、家具を背景にしても識別されるためであって、そうでなければ家具の色と混同してしまことだろう。
ベルナルダン・ド・サン=ピエール、『自然の調和』。

 蚤はどこにいても白い色の方へ飛んで行く。この本能が蚤に与えられたのは、我々が容易に蚤を捕まえられるようにとのためである。
ベルナルダン・ド・サン=ピエール、『自然の調和』。

 メロンが自然によって筋で区切られたのは、家族で食するためである。カボチャはより大きいので、隣人たちと分け合うことができるだろう。
ベルナルダン・ド・サン=ピエール、『自然の研究』。

〈真実への配慮〉

 どんな権威もだが、とりわけ教会当局は新奇なものに反対し、なんらかの真理を有する発見を遅らせることを怖れてはならない。そんなことは体制と社会通念を混乱させるという不都合に比べれば、一時的でまったく取るに足らない支障でしかない。
283頁、第2巻、ド・メストル、『ベーコン哲学批判』。

 ジャガイモの病気の原因はモンヴィルの災害にある。隕石の影響は谷間でより大きく、熱素を奪ったのだ。それは急激な冷却の結果である。
ラスパイユ、『健康と病気の歴史』、246, 247頁。

〈魚〉

 私が魚について驚くべきことだと思うのは、彼らが塩辛い海水の中で生まれ、生きることができるということであり、彼らがとっくに絶滅してしまわなかったことである。
ゴーム、『上級公教要理』、57。

〈化学〉

  この広汎な科学(化学)は一般教育課程にはまったくふさわしくないということを指摘する必要があるだろうか? それは大臣、司法官、軍人、船員、商人にとって何の役に立つだろうか?
ド・メストル、『未完の書簡と小品』。

〈科学に対する軽蔑〉

 何人もの人々が、科学というものは人間の手中にあっては、心の潤いをなくさせ、自然の魅力を奪い、脆弱な精神を無神論に向かわせ、無神論から犯罪へ赴かせると考えた。
シャトーブリアン、『キリスト教精髄』、335頁。

〈動物学〉

 今日、リンナエウスの体系にしたがうなら「哺乳類」としての人間は、猿、コウモリ、ナマケモノと一緒に並べられるのを目にすることは、たいへんに哀れを催すことだと我々には思われる。モーゼ、アリストテレス、ビュフォンや自然がそうしたように、被造物の頂点に人間を置いておくほうがよかったのではないだろうか?
シャトーブリアン、『キリスト教精髄』、351頁。

 その(蛇の)動きはあらゆる動物のそれと異なっている。その移動の原理がどこに存するのか誰にも分からない。なぜならひれも足も翼も無いからであるが、にもかかわらず蛇は影のように逃げ去り、魔法のように姿を消すのである。
シャトーブリアン、『キリスト教精髄』、138頁。

〈言語学〉

 もしも野蛮な言語の辞書を持っていたなら、そこにはそれ以前に教養ある民族によって話されていた言語の明らかな名残が見出だされるだろう。もしそれが見出だせないなら、それは単純に、その最後の痕跡を消してしまうほどまでに劣化が進んだということである。
ド・メストル、『サンクトペテルブルクの夜』。

〈自然科学は二流である〉

 保守的なものである真理の受託者および監視人であり、道徳的および精神的秩序において何が悪で何が善か、何が真で何が偽かを国民に教える役割は、高位聖職者、貴族、国家の高級官僚に属する。他の者たちはこの種の事柄について議論する権利を持たない。彼らの楽しみのためには自然科学が存在している。何を不満に思うことがあるだろうか?
第八対話、131頁、ド・メストル、『サンクトペテルブルクの夜』。

〈科学は二級の位置に置かれなければならない〉

 もしも古い原則に回帰せず、教育が司祭の手に返されず、至る所で科学が二級の位置に置かれないならば、我々を待ち構える悪の数は数えきれない。我々は科学によって動物同然となり、それは動物化の最終段階であろう。
ド・メストル、『根本原則試論』

《歴史に関する錯誤》

〈歴史研究についての意見〉

 管見では、歴史の教育は教授に対して困難と危険とをもたらしうる。生徒に対しても同様である。
デュパンルー

〈歴史批評〉

 精神的資質の観点からナポレオンを考察しようとするなら、彼を評価することは難しい。それというのも、大地に死をまき散らすことに忙しい兵士の内に善意を、周囲に自分と同等の者のいたためしのない男に友情を、世界の富の支配者であった絶対君主の内に誠実さを求めることは難しい。しかしながら、この人物がどれほど通常の規則から外れていようとも、あちらこちらで彼の精神的特徴を掴むことは不可能ではない。
A・ティエール、『執政政府および帝国史』、第二十巻、713頁。

 フランソワ一世の顧問の無分別を嘆く声を何度も耳にしたものだ。西インド諸島を献上しようとしたクリストファー・コロンブスを王は突っぱねたのである。
モンテスキュー、『法の精神』、第二十一篇、二十二章。
(フランソワ一世が王位に就いたのは1515年である。クリストファー・コロンブスは1506年に亡くなっている。)

〈十五世紀にパイプ〉

 大変に激しいこの情景から数歩のところで、スペイン軍の隊長はじっとしたまま、長いパイプをふかしていた。
ヴィルマン、『ラスカリス』

〈ナポレオン帝国の前夜〉

 平民の出自を特定できるような君主の家系はかつて存在したことがない。そんな現象が現れたとしたら、世界史を画することだろう。
ド・メストル、『サンクトペテルブルクの夜』

〈プロイセンは復興しないだろう〉

 プロイセン(1807)の力を復興できるものは何もない。血と泥と贋金とパンフレットで築かれたかの有名な建造物は、瞬く間に倒壊し、永遠に万事休すである。
ド・メストル、『書簡と小品』、98頁。

 聖ヨハネ・クリゾストモ、あのアフリカのボシュエ!
(聖ヨハネ・クリゾストモはアンティオキア(アジア)の生まれ。)

 ローマ人に対するハンニバルの勝利とボナパルトの上陸によって二重に有名なカンヌの町。

 彼はアベラールを迫害したとルイ十一世を非難する。
 ルイ十一世は1423年に生まれている。
 アベラールは1079年に生まれている。

 スミルナは島である。
J・ジャナン、『G・ド・フロット』、1860年。

《下層階級礼賛》

 『東方詩集』を作るよりもローヌ川の船頭になるほうが才能を必要とする。
プルードン。

《偉人についての愚かな言葉》

〈コルネイユ〉

 彼女(シメーヌ)の品行は、堕落してはいないとしても少なくとも破廉恥なものである。この有害な見本が作品を著しく不完全なものとしており、有用であろうとする詩の目的から遠ざかっているのである。
アカデミー(『ル・シッド』について)。

 誰か偉大なコルネイユの一作を挙げてみたまえ。私がそれを彼より上手に作り直すと請け負わないことがあるだろうか! 誰が賭けに応じるだろうか? 私を信じるのと同じくらいにアリストテレスを信じさえすれば誰にでも出来ることしか、私はしないことだろう。
レッシング、『ハンブルグ劇作術』、462, 463頁。

 この作家(ラ・ブリュイエール)が享受している評判にもかかわらず、彼の文体には不注意による過ちが多い。
コンディヤック、『文章作法概論』。

 (デカルト)想像力の逸脱によって有名な夢想家であり、その名は幻想の国のためにこそある。
マラー、パンテオンに関して。

 ラブレー、この人間性の内の泥。
ラマルティーヌ

〈リュリ〉

 社交界で頻繁に繰り返されている彼の旋律は、最も放埓な情念を吹き込む役にしか立っていない。
ボシュエ、『喜劇についての格言集』

〈モリエール〉

 モリエールが書く術を知らないのは残念なことだ。
フェヌロン

 モリエールは卑しい喜劇役者である。
ボシュエ

〈バイロン〉

 バイロンの天才は結局のところ幾らか愚かしいものに見える。
L・ヴイヨ、『自由思想家たち』、11頁。

 私の考えでは、バイロンが家族からも祖国からも追放された、すなわち不実な夫であり破廉恥な市民であったがために流刑の身となったのはまったく正当なことであるが、彼が精神と心情において真に偉大な良識人であったなら、ただただ改悛して、娘の養育権を回復し、故国のために尽くしただろう。
L・ヴイヨ、『自由思想家たち』、11頁。

〈偉人への悪口〉

 彼(ボナパルト)は確かに戦場では偉大な勝利者である。だがそれを除けば、最低の将軍でも彼よりも巧みである。
シャトーブリアン、『ブオナパルテとブルボン家について』

〈ボナパルト〉

 彼(ボナパルト)が戦争の技法を完成させたと信じられているが、彼がそれを技法の幼年時代にまで退行させたのは確かである。
シャトーブリアン、『ブオナパルテとブルボン家について』

〈ベーコン〉

 ベーコンには分析的精神が完全に欠如していたので、問題を解くことができないばかりか、それを提示することもできなかった。
ド・メストル、『ベーコン哲学批判』、第一巻、37頁。

 ベーコンはあらゆる科学と無縁な人間であり、彼の根本的概念のすべては誤っていた。
ド・メストル、『ベーコン哲学批判』、第一巻、82頁。

 ベーコンの精神は著しく誤っていたが、その誤りは彼にしかみられない種類のものだった。自然科学のあらゆる分野における、絶対的、本質的、根本的な彼の無能さ。

ド・メストル、『ベーコン哲学批判』、第一巻、285頁。

〈ヴォルテール〉

 ヴォルテールは哲学者として無価値であり、批評家や歴史家としては権威を持たず、学者としては時代遅れで、私生活は丸見えであり、高慢さ、意地悪さ、魂と性格の卑小さゆえに評判を落としている。
デュパンルー、『知的高等教育』

〈ゲーテ〉

 ゲーテは後世が判断するべく作品を遺したのだが、その後世はなすべきことをなすだろう。自身の青銅板に刻むことだろう。
「ゲーテ、1749年フランクフルトに生まれ、1832年にワイマールに没する。偉大な作家、偉大な詩人、偉大な芸術家。」
 そして、形式のための形式、芸術のための芸術、さらには恋愛と唯物論の熱狂的信奉者たちがやって来て、「偉人!」と付け加えるように求めると、後世は「否!」と答えるだろう。
A・デュマ・フィス
1873年7月23日。

《芸術についての思想》

〈馬鹿者たち〉

 特別な人間は、どんな分野においてであれ、成功の一部を彼らの組織の優れた性質に負っていることは疑いない。
ダミロン、『哲学講義』、第二巻、35頁。

〈間抜け〉

 あるフランス人が国境を越えるやいなや、彼は外国の領土に入るのである。
L・アヴァン、『日曜通信』。
12月15日。

 境界を越えたなら、もはや限界は存在しない。
ポンサール

〈馬鹿者たち〉

 食品販売業は尊敬に値する。それは商業の一分野である。軍隊はさらに尊敬に値する。何故ならそれは秩序を目的とする組織だからである。
 食品販売業は有用であり、軍隊は必要である。
『ヌーヴェル』、ジュール・ノリアック。
1865年10月26日。

 こうしたノートが約三巻分存在している。
 ギュスターヴ・フロベールのこの種の愚かさを発見する素質は驚くべきものだった。ある一つの例が特徴的である。
 スクリーブのアカデミー・フランセーズ入会の演説を読んでいて、彼は次の一文でぴたりと止まると、すぐにそれを書き写したのである。

 モリエールの喜劇はルイ十四世の世紀の大事件を我々に教えてくれるでしょうか? 偉大な王の錯誤、弱さ、過ちについて一言でも語ってくれるでしょうか? ナントの勅令について語っているでしょうか?

 彼はこの引用の下に記している。

 ナントの勅令、1685年。
 モリエール死去、1673年。

 演説原稿が事前に朗読されるのを聴くために委員として集まったアカデミー会員の内の誰一人も、このように単純に年号を突き合わせてみることをしなかったというようなことがどうして起こるのだろうか?
 ギュスターヴ・フロベールはこれらの証拠書類で丸ごと一巻の書物を作ることを考えていた。この愚かな言動の集成の重たさとやりきれなさを軽減するために、彼は二三の短編小説を挿入したことだろう。それらもブヴァールとペキュシェによってコピーされたものであり、詩的な理想主義の色合いのものである。
 彼の原稿の内に、そうした短編小説の一つのプランが見つかったのだが、そのタイトルは『ドン・ジュアンの一夜』であった。
 このプランは短いフレーズや、しばしば続きのない単語で書かれているが、どんな論文よりもはっきりと、作品を着想し準備する彼の方法を明らかにしている。その観点からして、このプランは興味深いものであろう。以下がその内容である。

ドン・ジュアンの一夜


I


 部分に分けずに一気に仕上げること。
 展開部のように動きのある始まり――光景として息切れした馬に乗った二人の騎士が到着する。風景の概観、だがまだ具体的に指示しすぎないこと、ただ木々の間の光のようなもの――茂みの中で馬に草をはませる――馬はくつわ鎖に脚をからめる、等々。――それは対話の中で、対話はところどころで行為の細部によって断ち切られる。
 ドン・ジュアンはボタンをはずし、剣を投げ出すと、芝生の上の剣はいくらか鞘から抜け出る。――彼はドニャ・エルヴィールの兄を殺したばかりなのだ。――彼らは逃亡中だ。――会話は刺々しくつっけんどんな調子で始まる。
 光景。――彼らの後ろに修道院。――彼らはオレンジの木陰になった斜面の芝生に座っている。――周囲は木々が囲んでいる。――前には緩い坂になった土地。――地平には頂上がはげた山並み。――夕暮れ時。
 ドン・ジュアンは疲れ、レポレロを責め立てる。――けれどあなたが送り、私に送らせている生活が私のせいでしょうか?――それじゃあ、俺の過ごしている生活は、俺のせいだというのか? ――なんと、あなたのせいじゃないんですか!――レポレロはそう信じている、なぜならもっとまじめな生活をしようという良き意志を彼が持つのをたびたび見てきたからである。――そうだ、だが偶然がそうはさせないのだ。例。――レポレロは例を挙げる。目にしたすべての女性を知りたいという欲望、人類普遍の嫉妬の感情。――すべて自分のものにしたいと望んでいらっしゃる。――機会をうかがっていらっしゃる。――そう、不安に駆られるのだ。俺が欲しいのは……あこがれだ。――かつてないほど、何が欲しいのか、何を望むのか彼には分からない。――ずいぶん前からレポレロには主人の言っていることがもう何も分からない。――ドン・ジュアンは純粋であることを望み、純潔な青年になりたいと願う。――彼がそうであったことはない、何故ならいつでも大胆で、恥知らずで積極的だったからだ。――彼はしばしば無垢な者の抱く感動を自ら味わいたいと望んだ。――すべてにおいて、あらゆるところにおいて彼が求めるのは女性である。――ではどうして彼女たちとお別れになるんです?――ああ! なぜだろうか!――ドン・ジュアンは所有した女の退屈さが理由と答える。――その目のかきたてるうんざりした気分。泣いている女を叩いてやりたいという気分。――哀れなかわいい小娘たちを、追い払ってしまわれるなんて。――お忘れになってしまうなんてねえ。――ドン・ジュアン自身も忘却に驚き、そのことを検討してみる。それは悲しいことだ。――愛の証を再び目にしても、どこから来たものかもう分からないのだ。――人生を嘆いていらっしゃるが、ご主人様、それは不当なことですよ。――レポレロは、ドン・ジュアンの幸福という考えを陰険にも楽しんでいる。――まるでレポレロが主人の詩情のいくらかにあずかっているかのように、若者たちは羨望の目で彼を見ている。
 どこかに息子がいるかもしれませんよ?という、レポレロの持ち出した考えについてのドン・ジュアンの夢想……。
 それに昔の女性たちに再会したいと望んでいらっしゃいましたね。――心の内でほとんど消えかけた面影をはっきりさせることができればというドン・ジュアンの望み。――あれらのイメージをもう一度はっきりと手に入れるためなら、何を投げ出さないものがあるだろうか!
 変えるのがすべてってわけじゃありませんね。しばしばより悪いものにお変えになるのだもの。――醜い女たちの愛。昨年は、あのナポリの老侯爵夫人にご執心じゃありませんでしたか?
 ドン・ジュアンはどのようにして童貞を失ったかを語る(城の暗がりで、お付きの老女)。――だが哀れな男よ(腕をつかみながら)、お前には欲望が何か、何によってそれが生まれるかは分かるまい?――身体的欲望の興奮――堕落――主体と対象とを隔てる深淵、対象の内に入りたいという主体の欲望。――それゆえに俺はいつでも求めつづけるのだ。――沈黙。
 父の庭には舟の舳先に飾る女性像があった。――それにのぼりたいという欲望。――ある日彼ははいのぼり、胸に触れる。――腐った木の中に蜘蛛。――最初の女体の感覚、危機に掻き立てられる興奮。――そしていつも木製の胸を再び見いだしたのだ。――なんですって、でも彼女たちが喜ぶ時は! だってあなたは幸福そうですよ。――喜びの驚き(前と後には安らぎ)、それゆえにいつもその向こうに何かがあるのではないかと疑ってきたのだ。――だが、そうではない。――どれほど口づけが張りつくようであっても、完璧な一致の不可能性。――何かが妨げとなり、それゆえに壁となる。互いにむさぼりあう瞳の沈黙。視線は言葉よりも前を行く。そこから、より親しく密着したいという欲望が生まれ、いつでも刷新され、いつでも騙されるのだ。(別の場所で記すこと:
 欲望における嫉妬=知ること、所有すること。
 所有における嫉妬=眠るのを見ること、徹底的に知ること。
 記憶における嫉妬=再び所有すること、よく思い出すこと。)
 それでもいつも同じことですよ、とレポレロが言う。――ああ! そうではない、決して同じではない! 女の数だけ、異なった欲望、喜び、苦い思いがあるのだ。
 レポレロの卑俗主義がドン・ジュアンの優越主義を浮かび上がらせ、相違を示すことで彼を客観的に提示するように! しかしながら相違は強度の内にしかないのだが。
 他の男たちになりたいという欲望。女たちが見るすべてのものになりたいと望む。――あらゆる美女を所有したい等々。――でもたくさんの女性を手に入れていらっしゃるじゃないですか。――それがどうしたというのだ? たくさんの愛人も、残り全体と比べたらどれほどだというのか? どれほど多くの女性が俺を知らず、彼女たちにとって俺が何物かであったことがないとは!
 二種類の愛。自らに引きつけ、吸い込む愛。そこでは個人主義と感覚が優位にある(だがあらゆる種類の官能というわけではない)。嫉妬はそれに属している。二番目の愛、それは自分の外に引き出される愛である。それはより広く、より痛ましく、より甘美である。前者が回帰する苦味を持つところで、後者は魅力を放つ。ドン・ジュアンは時折、同じ女に対して両方の愛を感じる。前者に訴える女性たちがいて、後者を掻き立てる女性たちがいるが、時には同時に両方だ。それはまた時期、偶然や気分次第でもある。
 ドン・ジュアンは疲れ、考えすぎて答えを得られない時に人を襲う死にたいという気分に捕われる。
 死者を弔う鐘の音が聞こえる。すべてが終わった者が一人いるわけだ。一体何だろうか?
 彼らは頭を上げる。


II


 ドン・ジュアンは壁をよじのぼり、アンナ・マリアが眠っているのを目にする。――情景描写。――長い凝視、――欲望、――思い出。――彼女は目を覚ます。まず、思考の後を続けるかのように、途切れ途切れの言葉。彼女は彼を恐れない(幻想と現実とを区別できないように、できるだけぼかして)。
 ずっと長い間待っていました。あなたは来なかった。――彼女の病と死を語る。――対話が進むにつれ、彼女は一層に目覚めてゆく。――真ん中から分けた髪に汗、ゆっくり、ゆっくりと起き上がる。はじめは肘をついて、そして座る。――驚きにみはった目。――明確さへ戻ること。――どのようにしてか?
 森で足音か聞こえていたのはあなたでした、――夜ごとの息苦しさ。――修道院の中の散歩、柱の影は、木の影のようには動きませんでした。私は手を泉に浸しました。――喉の渇いた鹿との象徴的比較。――夏の午後。
 私たちの夢を語ることは禁じられていました――アンナ・マリアのベッドを見下ろす十字架象に関して。このキリストが夢を見張っている。――若い娘の心が動揺し、しばしば血を流す間も、十字架象は常に不動である。
 アンナ・マリアにとってキリストは何か、でも私の愛の中で彼は私に答えてくれません。――おお! それでも彼によく祈ったのです! どうしてそうしようとしてくれなかったのでしょう、どうして聞いてくれなかったのでしょう? 肉と(神秘的な愛を補う)真の愛への希望、それと並行するドン・ジュアンの放恣な希望、彼は別の恋愛において、とりわけうんざりした時に、神秘的なものを欲求したのだった。(ドン・ジュアンに関してこのことを、レポレロとの会話において示すこと)。
 両腕でドン・ジュアンを抱こうとするアンナ・マリアの動き。――前腕のふくらみが頸動脈に触れ、硬直した腕の先の手首は、彼に届くには小さすぎる。ドン・ジュアンの髪の巻き毛の一束が、彼女のほうに屈みこんだ時に、シャツのボタンとからまる。
 夜は活気づく、――山に牧人の火。そこでも人は愛を語る。――彼らの心を占めるのは愛だ。君は単純な喜びを知らない。陽が昇る。
 刈り入れの時期のアンナ・マリアの生への希望。教会での日曜の午前や祝日。――指導者たちが彼女を苛む。――私は告解場が大好きでした。彼女がそこへ近づく時には官能的な恐怖を感じていたが、それは自分の心が開かれるからだった。――神秘、影。――だが彼女には告げるような罪はなかった。それを持ちたいと思ったことだろう。人の言うところでは、烈しく――幸福な――人生を生きる女もいるという。
 ある日、教会にたった一人でいる時に彼女は失神する。そこへ花を捧げにきたのだが(オルガン奏者が一人で演奏していた)、陽の注ぐステンドグラスを見つめていたのだった。
 聖体を拝領したいという頻繁な欲望。体内にキリストを、自らの内に神を持つこと!――秘跡を受けるたびに、渇きが癒されるように思えるのだった。――お勤め、断食、祈祷などを繰り返した。――断食の官能性。――胃が引きつり、頭がぼうっとするのを感じる。――彼女は怖れ、自分を怖がらせようと努める、等々。苦行。――彼女は良い匂いが大好きだった。――彼女はむかつくようなものの匂いを嗅ぐ。――悪臭の官能的悦び。――そのことを、それが彼女を夢中にさせることを、ドン・ジュアンを前にして彼女は恥じる。――アンナ・マリアは自分の欲望に驚く。――これは何だ? どうして、俺が望むと、彼女が自分では知らないものを望むようになるのか? 官能が彼女の全身に染み入ってゆく(ドン・ジュアンの内には嫌悪が)。――人が話しているのが聞こえた。――話して! 話して!

 油が切れてランプが消える。――星々が部屋を照らす(月は出ていない)。――そして陽が昇る。――アンナ・マリアは再び死ぬ。
 馬が草を食み、背中の鞍を鳴らすのが聞こえる。ドン・ジュアンは逃げ出す。

 アンナ・マリアの性格の調子:〈優しい〉
 〈決してドン・ジュアンから目を離さないこと〉。主要な目的(少なくとも第二部では)は、結合、平等、二元性、それぞれの項はこれまで不完全で結びあっていた。それぞれが上昇しながら次第に相互に補完しあい、隣接項と結びつくように。

 ギュスターヴ・フロベールは『ブヴァールとペキュシェ』を一気に書き上げたのではなかった。彼の半生はこの書物についての考察に過ぎ、彼は最期の十年間をこの力仕事の実践に捧げたと言えるだろう。飽くことを知らぬ読書家、疲れ知らずの研究者として、彼は休みなく資料を積み重ねた。ついに、ある日、彼は作品に取りかかったが、仕事の巨大さに驚いたのだった。「狂ってしまわなければならない」としばしば彼は述べた。「このような書物を企てようとするには。」とりわけ超人的な忍耐と、根強い意志とが必要だった(26)
 彼方、クロワッセにおいて、窓が五つある広い書斎の中、彼は自分の作品を前に昼も夜も呻き声をあげた。休息も、慰めも、快楽も、気晴らしもなく、精神を驚くほどに緊張させ、絶望的なゆっくりさで進んで行き、毎日、読むべき新しい本、取り組むべき新しい調査があることを発見するのだった。そしてまた文章が彼を苦しめた。とても簡潔で、とても正確で、同時に彩りのある文章は、二行の内に一巻の書物を、一段落の内に一人の賢者の思考の全てを閉じ込めなければならなかった。同じ性質の思想の一山をまとめて取り上げ、霊薬を準備する化学者のように、それらを溶かし、混ぜ合わせ、付随物を取り除き、主要な思想を純化する。そして彼の驚くべき坩堝からは、五十語の内に哲学の一体系を包摂する絶対的な公式が現われ出るのだった。
 一度、彼は疲れ、ほとんど意気阻喪し、止まらなければならなかった。そして休息として、『三つの物語』と題された甘美な書物を著したのだった。
 そこで彼は自分の作品の完全で完璧な要約を作ろうとしたと言えるだろう。三つの小説、『純な心』、『歓待者聖ジュリヤン伝』、そして『エロディア』は、簡潔で見事な仕方で、彼の才能の三つの面を示している。
 もしもこの三つの宝石に順位をつけなければならないとしたら、恐らくは『歓待者聖ジュリヤン伝』が第一位に置かれるだろう。それは色彩と文体をもった絶対的な傑作、芸術的傑作である。
 『純な心』は誠実で頭の弱い田舎の哀れな女中の生涯を語っている。その人生はまっすぐに死まで続いており、真の幸福の光に照らされることは一度もない。
 『歓待者聖ジュリヤン伝』は聖人の奇跡に満ちた冒険を語っているが、それはまるで、教会の古いステンドグラスが、博識に富んで生き生きとした純真さをもって語るようにである。
 『エロディア』は洗礼者ヨハネの斬首という悲劇的事件を語っている。
 ギュスターヴ・フロベールはまだ幾つもの短編や長編の主題を温めていた。
 まず彼は『テルモピュライの戦い』を書こうとして、1882年の初めにギリシャに旅行し、この超人間的な戦闘の行われた場所の現実の光景を見るはずだった。
 それによって一種の単純かつ激しい愛国的物語を作りたいと思っていたのであり、国への愛情を教えるためにあらゆる民衆の子どもたちに読んでやることができるものになっただろう。
 この象徴的な英雄たちの勇敢な魂、寛大な心、たくましい身体を提示し、技術的な語や古代の用語を用いることなく、一国の歴史にではなく世界史に属しているこの不滅の戦闘を描いてみせたかったのである。これらの戦士たちが妻に向かって、もし自分たちが争いの中で死ぬことになったら、すぐにたくましい男と結婚して祖国に新しい子どもをもたらすように告げるという別れの場面を、響きのよい言葉によって書くという考えを楽しんでいた。この英雄物語について考えるだけで、フロベールは激しい熱狂に浸るのだった。
 彼はまた、トゥルゲーネフ(27)が語った主題に魅了されて、一種の現代版『エフェソスの貞女』を考えていた。
 最後に、彼は第二帝政についての大長編を計画していて、そこでは東洋と西洋の文明の接触と融合が、ナポレオンの支配時代に実に数多くパリへやって来て、パリの社会で重要な役割を果たしたあのコンスタンチノープルのギリシャ人たちと、帝政フランスの洗練された模造の社交界との接近が見られたことだったろう。
 二人の主要な人物が彼を惹きつけていたが、それは男と女、〈パリジャンの夫婦〉で、無邪気であると同時に抜け目なく、野心家であって堕落している。男のほうは高級官僚であり、夢見ている財産にゆっくりと近づいている。そしてエゴイストであると同時に自然な策略から、大変に可愛らしく陰謀家の妻を、自らの計画に利用する。
 伴侶によるあらゆる種類の努力にもかかわらず、彼の欲望は思うように満足することがない。そこで何年も試みた後になって、二人は自分たちの望みが空しいことを認め、失望した誠実な人として、諦念に満ちた穏やかな仕方で自分たちの人生を終えるのである。
 彼はまた役所についての大長編の計画も持っていて、そのタイトルは『県知事殿』といった。知事というのがどれほど滑稽で、重要かつ無用な人物かを誰も分かっていない、と彼は断言していたのだった。


ギュスターヴ・フロベール、『ジョルジュ・サンド宛書簡』、シャルパンティエ書店、1884年、1-62頁。
Guy de Maupassant, Chroniques, préface d'Hubert Juin, U. G. E., coll. « 10/18 », 1980, t. III, p. 77-109.




訳注
(1) Anne Justine Caroline Fleuriot (1793-1872).
(2) Jacques-Guillaume Thouret (1746-1794):政治家。1789年から憲法制定議会の議長を務めたが、恐怖政治時代に処刑された。
(3) Anne Justine Charlotte Camille Cambremer de Croixmare (1762-1793).
(4) Marie-Anne-Charlotte Corday d'Armont (1768-1793):フランス革命時にマラーを暗殺した人物。
(5) Achille-Cléophas Flaubert (1784-1846).
(6) Louis-Hyacinthe Bouilhet (1822-1869) : 詩人・劇作家。ルーアンの中等学校でフロベールの同級生となり、以後親しい友人となった。『メレニス ローマの物語』(1857)、詩集『フェストンとアストラガル』(1859)、戯曲に『マダム・ド・モンタルシー』(1856) など。遺作『最後の歌』はフロベールの助力によって1872年に出版された。
(7) Gustave Flaubert, « Préface » dans Louis Bouilhet, Dernières chansons, Michel Lévy frères, 1872, p. 33-34.
(8) Alfred Le Poittevin (1816-1848):フロベールの幼友達で、後に弁護士となったが早逝した。アルフレッドの妹がモーパッサンの母ロールである。
(9) Maxime Du Camp (1822-1894) : 作家。フロベールの友人で、1849年から51年にかけて一緒にエジプト旅行に出かけた。『パリ評論』創刊者の一人。デュ・カンは『両世界評論』1881年9月号に『文学的回想』第4回「ギュスターヴ・フロベール (I)」を掲載し、フロベールがてんかんを患っていたことを暴露した。モーパッサンは「仲間意識?……」(1881年10月25日)において抗議を表明した。
(10) François Rabelais (1483頃-1553) : 作家。『パンタグリュエル』(1532)、『ガルガンチュア』(1534) 等の小説において、古典に基づく該博な知識と言葉遊び、造語、スカトロジーとを混ぜ合わせた一大世界を創造、その作品はユマニスム文学最大の成果と言える。
(11) Jean de La Bruyère (1645-1696) : モラリスト。『人さまざま』(1688) で時代の風俗や人物を鋭く批判した。
(12) Jacques Bénigne Bossuet (1627-1704) : 神学者。王太子の教育係として『世界史論』(1681) を編む。追悼演説が古典主義の散文の規範として有名。
(13) Charles Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu (1689-1755) : 啓蒙思想家。異国人の視点でフランス社会を批判する『ぺルシア人の手紙』(1721) で成功を収めた。長年をかけて『法の精神』(1748) を完成させた。
(14) François René de Chateaubriand (1768-1848) : 作家。『キリスト教真髄』(1802)中の小説『アタラ』、『ルネ』が名高く、ロマン主義世代に大きな影響を与えた。
(15) Jules Michelet (1798-1874) : 歴史家。国立古文書保管所に勤め、『フランス史』(1833-1844, 1855-1867) を完成させる。
(16) Théophile Gautier (1811-1872) : 作家。『モーパン嬢』(1835) 序文に「芸術のための芸術」を主張。詩人・批評家としても活躍し、高踏派以降の世代に大きな影響を与えた。
(17) Victor Cherbuliez (1829-1899) : スイス出身の小説家・劇作家。1881年にアカデミー・フランセーズ入会。モーパッサンは1883年5月1日の『ジル・ブラース』掲載の記事「ヴィクトル・シェルビュリエ氏」において辛辣な批判を述べている。
(18) 1878年8月15日付、モーパッサン宛書簡。
(19) Jules Champfleury (1821-1889) : ジャーナリスト・小説家。評論集『レアリスム』(1857) で芸術におけるレアリスムを主張した。
(20) Émile Zola (1840-1902) : 小説家。「自然主義」を唱道し、「第二帝政期における一家族の自然的・社会的歴」の副題を持つ『ルーゴン=マッカール叢書』全20巻を完成させた。
(21) Joseph Prudhomme:風刺画家アンリ・モニエ Henry Monnier (1799-1877) が創作した人物。愚鈍なブルジョアの典型。
(22) Victor Hugo (1802-1885) : 詩人、劇作家、小説家。戯曲『クロムウェル』(1827)や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829) などによってロマン主義を主導した。第二帝政期には国外に亡命、小説『レ・ミゼラブル』(1862)を発表した。
(23) この段落から、「~あらゆる断言の意気を挫くものとなった。」までは、評論「ブヴァールとペキュシェ」(『ゴーロワ』紙、1881年4月6日付別冊)の再録、ただし一部推敲されている。
(24) « l'éternelle misère de tout » :『感情教育』(1869)、第三部第一章の中の言葉。
(25) 『ブヴァールとペキュシェ』、第3章中のブヴァールの台詞。
(26) この段落から、「~『三つの物語』と題された甘美な書物を著したのだった。」までは再度、評論「ブヴァールとペキュシェ」(『ゴーロワ』紙、1881年4月6日付別冊)の再録。
(27) Ivan Tourgeniev (1818-1883) : ロシアの小説家。人道主義に立って社会問題を取り上げた。フランスに長期滞在し、フランスの芸術家と親しかった。『猟人日記』(1852) など。




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